| サン・ルイ・仏 〜国家機密漏洩で社員が処刑された〜 |
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前々回、のバカラ編でも少しご紹介した、フランスを代表とするガラスメーカーです。日本ではバカラほど有名ではありませんが、ペーパーウェイト・バーナーワーク関連作品では定評があり、他の追随を許さないほど洗練されていました。 ■ フランスの国家機密にもなったサン・ルイとは ↓ サンタンヌ・バカラ・ガラス工場※1 が創設されたその3年後の1767年の2月17日、時の国王ルイ15世は、M・ルネ=フランソワ・ジョリー社というガラス製造メーカーに、”サン・ルイ王立ガラス工場”という名前を使ったガラス工場を創立する許可を与えました。 設立場所は、バカラ工場と同じく、ロレーヌ地方であるミュンツァールの森に建設されました。ここは、材木や砂、苛性カリが非常に豊富だったとされ、まさしくガラス工場を建てるのには打ってつけの場所でした。また、この時代の何世紀の間、この土地は円筒吹きガラス(吹きガラスで円筒に作って、開いて平たくして作った板ガラスをいう)の主産地であったそうです。 18世紀初めのフランスは、上質ガラスの生産に関しては他のヨーロッパ諸国にかなり遅れをとっていたそうで、1760年に当時の国家機関である王位科学アカデミーは、自国のガラス製造技術分野の進歩に貢献した工場に、賞を授けることにして、フランスのガラス産業の底上げに力を入れ始めたそうです。 そしてその後の1772年、サン・ルイ社の鉛ガラスは、当時賞賛されていたイギリスのフリント・ガラスに匹敵する、との評価がアカデミーよって下されました。初期のサン・ルイは生産方針を度々変えてはいましたが、それが工場の成長や成功の妨げとなることはありませんでした。 1782年にサン・ルイはフランスで初めて、クリスタルの製造に成功し、いよいよサン・ルイのクリスタル部門は1786年までには繁栄を遂げはじめ、従業員の数も76人までに数えるまでとなっていきました。 1785年には、フランスの国会は、ガラス産業の重要な商業機密を守る為に、サン・ルイを辞めていく退職志願者には2年前からの通知が必要で、また工場から1リーグ(約4.8km)以上外出する時には、許可を得る義務があることを法令化し、その重要な産業に国民の意識を促したそうです。特にガラスの生産技術に関する情報の漏洩に関しては、最悪、極刑(死刑)もありえたというから、想像を絶するものだったそうです。 サン・ルイは、19世紀に入ると型押しガラスを導入し、ガラス器やクリスタルの製造範囲に広がりを見せました。そして1830年には、さらにクリスタル事業に専念する為、社名を変更し、サン・ルイ・クリスタル社という新しい社名に変えました。それから2年後には、サン・ルイ、ライバルのバカラは、ガラス製品を小売り業者を通して販売する方針を取り入れ、パリのロネ・オタン社と提携を組んだそうです。 その後は、名門バカラ社とともにペーパーウェイト事業に専念し、”サルファイドのバカラ”、”ミルフィオリのサン・ルイ”※2 とそれぞれ得意の分野でパリの博覧会に頻繁に出展して、お互いの技術力を誇示しはじめたのですが、ペーパーウェイトブームは過去のものとなり、創造性を売りにしてきたサン・ルイは次第にバカラや後のメーカー、クリシーなどにその座を脅かされていくまでになっていきました。 ※1 バカラの項参照 ※2 ミルフィオリ・グラス参照 |
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